旧燈明寺跡の保存と活用

燈明寺の歴史

木津川市加茂町兎並寺山にあった燈明寺は、文化7年(1810)の本尊開帳の記録である『縁起・錺付烈・開扉中諸記』や『東明寺過去帳』(元禄8年/1695)の裏に天保12年(1841)に書かれた縁起では、奈良時代に行基によって開山されたと伝えています。

解体されたまま格納され状態にあった本堂が、昭和57年(1982)に横浜市三渓園に移設される際に京都府教育委員会によって、また昭和60年(1985)に本堂跡に収蔵庫が建設される際に加茂町教育委員会によって、発掘調査が行われました。下層から古墳時代後期(6世紀初)の古墳の周壕の一部が見つかり、周壕内から埴輪や須恵器などが出土しました。庫裏と本堂跡の背後の山地には3基の古墳が確認されていますし、周辺からは弥生時代の土器や石器も出土しています。この2度の発掘調査で、本堂の基壇の下層から奈良時代の須恵器杯と蓋、墨書土器や土馬、平城宮式の軒丸瓦などが出土しました。奈良時代の寺院の存在を物語る資料ではありますが、建物などの遺構は見つかりませんでした。

一方で、元禄9年(1696)の『東明寺縁起』には、平安時代の貞観5年(863)に弘法大師の弟子の真暁が開基したと記されています。創建時期については、なお今後の検討が必要のようです。

この寺は創建当初は観音寺と号されましたが、のち東明寺と改められました。木津町の御霊神社に伝わる「大般若経」の中に、嘉禄元年(1225)に東明寺源長が願主となり、聖縁が書写した旨の奥書を持つものがあります。これが「東明寺」の名が見える最も早い資料で、当時賀茂郷に東明寺が存在したことが確認されます。また鎌倉時代末には、本尊「千手観音立像」を初めとする5軀の観音立像や、石造十三重塔や燈明寺型として知られる石燈籠などが造られました。これらのことから東明寺は鎌倉時代末に整備されたものと推測されます。その後荒廃していた東明寺は、室町時代中期に天台宗の賢昌房忍禅によって復興され、本堂や三重塔が康正2年(1456)から翌年にかけて建立されました。忍禅は東明寺別院興法院に住し、多くの什物を興法院に施入していますが、これらの一部は今も加茂町の常念寺に伝えられています。忍禅の再興よって伽藍が整ったものの、やがて再び荒廃しました。 

近世になると東明寺は燈明寺とも書かれるようになります。寛文3年(1663)頃に、本圀寺の僧日便が兎並村の領主である津藩主藤堂高次の助力を得て、本堂や三重塔を修築するなど再興に当たりました。宗派を日蓮宗に改め、山号も龍王谷山から本光山としました。藤堂藩からは寺領として龍王谷山6町歩と若干の山田を賜っています。寛文12年(1672)には現在の庫裏が建てられ、貞享5年(1688)には梵鐘が造られました。享保12年(1727)頃、本堂等が大破し、その修復費用に充てるために名物の石燈籠を三井家に売却するということもありました。

江戸時代を通じて本圀寺末寺となり、『拾遺都名所図会』に見られるような寺観となって、後期には「南山城三十三箇所霊場」の第三番として多くの参詣者を集めました。

近代に入ると寺勢は次第に衰微し、大正3年(1914)には三重塔が横浜の三渓園に移譲されました。同8年からは川合芳次郎が創設した「正法護持財団」によって経営が維持されたものの、寺勢を回復するには至らず、昭和9年以降は住職欠員のまま無住となり、同27年には廃寺となりました。

昭和23年(1948)の暴風雨で大破した本堂は、特別保護建造物(旧国宝、現在の重要文化財)として保存修理事業で解体され、現地で永く保存されていましたが、昭和57年に部材が三渓園に移送され、のちに復元されています。本堂の跡地には、昭和60年に正法護持財団によって収蔵庫が建てられ、観音像5軀を初めとする文化財を収納し、平成元年からは当財団がその維持管理を引き継いで現在に至っています。